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そぞろごと Reviews + Opinions

「劇場版「鬼滅の刃」無限列車編」をみる

数ヶ月前から鬼滅の刃の主題歌を大熱唱中だった我が家の小学生。本編には興味ないとかっこうつけていましたが、クラスで日々増える鬼滅の刃の会話に痺れを切らしたのか、ついに「映画観に行きたい」と言ってきたので行ってまいりました。(ちなみに私はNetflixでアニメを視聴済み、子どもはテレビで飛び飛びに視聴。)

観劇後、大人の私は「煉獄さん、いい上司だな」という感想を持ちましたが、子どもは「呼吸全部使えるようになりたい!」という感想でした。そんな子どもの様子を見ながら、私も小学生の時、亀仙人がフライパン山で披露したかめはめ派を参考にやってみたことがあったな・・と思い出しました。結果かめはめ派は出ず、自分の平凡さにがっかりしたのですけれど。

 

しかし鬼滅の刃が人気があるのもわかります。煉獄さんや炭治郎やいのすけの言葉に心が震えてしまうのは、誰もが心のどこかで「あんな生き方ができたらいいな」と、憧れに似た気持ちを持っているからなのではないでしょうか。鬼滅の刃は、「鬼を狩る」というわかりやすく一本道な大目標を持ち、それに向かってひたすらに精進する若者たちのお話だと思います。鬼という熱くなれる明確な対象があり(命がけだけど)、より強い鬼を狩れるようになるためには努力が求められ、そのための模範となる先輩たちもいる。望む者には適切なアドバイスも実践の機会も与えられ、努力すればするほど勝利という形で成長を実感でき、その結果的として社会の役に立てる。皆んながみんな、誰かがやってくれると思って生きていない。ああ、こんな世界ならおれだって心を燃やせるのに・・・と錯覚します。しかし剣や鬼やすごい呼吸法を除けば、自分の環境に置き換えることも可能だし、彼らのような心持ちで生きることは不可能ではないのではない‥はず‥!と思ったりもしました。まあ、彼らと違って自分の仕事の意義は見失いがちですし、これでよかったのかと迷子になりやすく、ついつい「煉獄さんのような上司求む!」みたいな気持ちになってしまうのですけれども。

 

それからこの映画を観ていて思いを馳せたことがもうひとつ。この作品に限らず、冒険的物語における少年少女でも若者でも老人でもない世代、つまり子育て働き世代の中年世代(語感が悪い)の扱いについてです。以前、何かで少年少女向けの登場人物は19歳以下でないと共感されづらいというような話を読んだことがあります。鬼滅の刃も少年ジャンプでの連載ということで、若者が中心に描かれています。柱ですら10代から20代。でも、現実世界と照らし合わせて(さらに自分を中心に)考えてみると、30〜40代って働き盛り。体は動くし、世界の仕組みを感じとる程度には経験値もある。もちろん若者のような俊敏性や寝ないでも大丈夫な能力、無垢に世界を信じる清い心はありませんし、鱗滝さんのような知恵と経験値の象徴としとはまだまだ若輩で、確かに「中年」、中途半端なのです。たとえ物語の真ん中あたりに混ぜてもらえたとしても、10代の正統派主人公たちからすると20代さえ遥かに遠い大人に感じる中、おじさんはおじさんが思う以上におじさんなので、読者を意識すると難しいのはわかります。けれども、今や少年少女だけではなく、より幅広い世代がこういった映画や漫画や小説を見るようになった時代です。だからこそ、中年にはもっと可能性はないものか・・・と思ったりもします。

 

もちろん少年少女が活躍するファンタジーはすばらしいです。彼らが始まったばかりの人生をより良く生きるための、ある種参考書みたいなものですから、大切なことです。しかし私のような中年世代が若者の物語を読んで思うのは、自分は終わった側の人間なのだ、というさみしさです。世界を救うのは、若者だけの特権なんだろうか。中年は決して物語の主人公にはなれないのだろうか。私たちだって、私たちの人生にまだまだ希望を持ちたいし、感じさせてほしい。戦いに行く子どもたちを送り出し、帰ってきた彼らに暖かいごはんを出す以外にも役割はあるはずなのです。これからの時代、人は長く生きます。だからこそ、若く青い時代が過ぎ去っても、若者のサポーター役に徹しなければいけないと思わず、一緒に戦っていきたい。いくつになったって心を燃やして戦う場面はやってくるはずだと、そう思いたいです。とは言っても、結局自分の人生をどう生きるかは自分次第ですし、そのモチベーションを若者からもらっても問題ないわけですが、「いくつになっても挑戦できる」という概念が溢れるこの時代だからこそ、若者中年壮年老人が混じり合って紡がれる冒険物語も見てみたいです。

進歩的な女性

昨日『コードネームU.N.C.L.E』という映画を観ました。冷戦時代のアメリカとロシアのスパイが主人公の、コミカルでスタイリッシュで楽しい上にひたすらに美しい男たちと女たちが映り続ける、何回でも観られる作品です。この映画には2人の女性が出てきますが、どちらも仕事を持ち、とても強い。この時代にしては進歩的な女性だったんだろうな‥と思い、ふと進歩的な女性ってなんだろうと考えました。

 

80歳目前である私の母の時代には、進歩的な女性とは主に「家庭の外に踏み出し仕事を続ける人」だったと思います。そんな勇気ある女性たちがたくさん活躍したおかげで、私が社会に出る頃には女性がおもいきり働くことを謳歌できる土台ができていました。もちろん、性別の区別ない世界がすべて叶ったわけではないし、今でも女性をみくびる人はいる。何の不自由もないわと思い込んでいた私だって、今思えばみくびられているなと思ったことはありました。けれど、「女の子に意見されたことなんてないからびっくりしちゃって」と20代の私に言ったおじさんを鼻息荒く無視するくらいの自由はありましたけど。

 

私は母親になり、考えます。今、この時代における進歩的な女性とはなんだろう。

 

昨今あらゆる局面で多様性が大切だと言われ、もはや万人に当てはまる進歩の定義はないように思えます。道標になる情報は山ほどあるものの、結局その中からどの情報を掴むかは自分で決めなければならない。「女性たちよ、外へ出よう」というひとつのスローガンの元、同じ方向を目指して走っていた時代は過ぎ去り、様々な壁が打破されたあとに広がるのは大きな可能性という森です。あらゆる人の在り方を認め、その気になればどんな道も開けるという時代を歩くのは、時に苦しい。どんな選択肢でも選択可能な世界は、「今よりベターな選択肢がこの先あるかもしれない」という現状への消化不良感も与えてくれます。「これを壊せば進歩だ」と言う絶対的なものの残っていた時代を少しうらやましく感じてしまうのは、私が自由という贅沢に慣れてしまったせいなのでしょうか。

 

今の時代、女性が働くことはもはや当たり前になり、結婚するしないも、子どもを持つ持たないも本人の価値観によって選択されるようになりました。結婚し子どもを持った後の女性のあり方についても、女性が家庭の外を目指すことは(概念的には)定着し、次の段階に突入しています。今や夫婦ともに仕事を持つ家庭が増え、さらには夫に家庭を任せて自らが稼ぎ頭になる超進歩的女性もいる。一方、テクノロジーのおかげで本来外でしていた仕事を自宅ですることが可能になり、家庭と仕事の両方を手に入れる道もできたし、逆に家庭運営に価値を再発見する人がいたりするなど、母たちの進路も多様化しています。そういった”在り方”だけには止まらず、女性が選択できる職業や住む場所などにも広がりが加わり、無限の選択肢を前にしばし圧倒されることもあります。今や、私たちは様々な選択肢を自由に”選べる”世の中に生きています。しかし、問題は選択肢の多さだ、と感じることもあります。過去の女性たちからしたら、なんと贅沢な悩みか。

 

この数十年の間に、女性が家庭という枠から飛び出して活躍するという進化が成されてきました。その後を継ぐ今の女性たちが進歩する先は、もはやその延長線上だけではないのかもしれません。みんなが走るべき1本の絶対的直線コースはもはやなく、あらゆる方向にいろいろな長さのコースが走っている。そのいくつかは、直線ですらないかもしれない。人によっては何もないところに自分でコースを作るかもしれない。世の中にある選択肢の中から選択するか、はたまた自分で新たな選択肢を創り出すのか、それすら選択できるのです。ではとどのつまり、今の時代の「進歩的な女性」とはなんなのか?それは自分の優先価値を把握し、膨大な選択肢の中から自分の行き先を自分で見出す力を持った女性を指すのかもしれない。いや、なんだか合わないな。進歩的という言葉そのものがそぐわなくなってきているのかな。言いかえよう。世間や社会、はたまた自分以外の誰かが指し示す方向に惑わされず、自分の思いに耳を傾けその声に従うことのできる強さを持った女性、ということでどうでしょう。これからのベクトルは「進歩」から「強さ」へ。となると、進歩的な女性という表現事態が過去のものとなり、価値をはかる軸そのものが変わったこと、それこそが女性全体に起きている進歩なのかもしれません。

 

十二国記「白銀の墟 玄の月」3、4巻

読みました・・発売日に。やるべきこともほっぽって。

読後の感想としては・・「おもしろかったー!」です。でした。いや満足なんです。あのつらく苦しい物語にハッピーエンドが(一応)あったと知れただけで、うれしいのです。でも‥本音を言えば喜び大爆発なシーンをむしゃむしゃと食べたかった。素手で、顔をよごしながらむしゃむしゃと!

とりあえず、感想をつらつらと書き留めておきます。

 

1、2巻を読み終わったとき、私は作者が私たち読者が泰麒と驍宗の熱い邂逅を待ちわびていることを重々承知した上で、あえてそこをスルーするのではないかという気がしていました。十二国記最後の長編ということもあり、戴国を舞台に天とは何なのかを問う物語が展開されるのではないか。そのためには、泰麒と驍宗の再集結は重要ではなく、泰麒は困窮する戴の民のために淡々と驍宗に別れを告げ次の王を探すストーリーが待っているのでは・・・と。今作を黄昏の続きと考えると、どうしても陽子や李斎が天に疑問を抱いたことが発端になっていた気がしてしまったのです。

 

しかし!蓋を開けて読み終えてみれば、天帝システムの中でもがき苦しみ、それでも足掻く人間による人間のための人間くさい物語でした。終盤、李斎は天帝システムに相変わらずむかついているけれど、受け入れたような描写もありましたし。今作は「王は驍宗」という事実は不変で、そのために大勢の人が動き、死ぬ。それでも志を決して曲げず捨てず、まさに命がけでやり抜いた人たちの物話でした。使令不在の泰麒に至っては、驍宗を救うため、血に酔う麒麟の性さえ乗り越え、兵士を自ら切り捨てて見せました。そんな麒麟、見たことがありません。血の匂いがするだけでプルプルしてしまう景麒を懐かしく思い出してしまいます。私は1巻の表紙の泰麒を見たとき、「困窮する戴の民を救うため、なんとしても驍宗様をお探しします」という覚悟の表情だと思っていました。しかし囚われた正頼のところに向かう途中、殺傷を恐れる自分を叱咤するため「先生」と泰麒がつぶやいたとき、ああこの人は置き去りにした広瀬先生や蓬莱での大量の死をも忘れず背負ってここにいるのだなと、胸にくるものがありました。引き返せない。あれだけのことを引き起こしてしまったのだから、前を向くしかないのだと。

 

そして阿選よ。あなたの動機なんて個人的なの。その地点で自ら負けを踏んでしまったことを認めて欲しかったですが、引き返せなかったのでしょう。これをダークサイドに堕ちたというのか、ホメロスしたというのか。そう考えると、行きすぎた知的好奇心の持ち主、琅燦の罪深さよ。天を知りたかったという理由のためだけに阿選を利用した、自分の欲求だけに忠実な未発達な心の持ち主。他者を認めて敬う心はあるけれど、見かけの通り未熟だったのか、単に違う道理で動いていたからなのか。黄朱だから天や王や麒麟に頓着しないとは言うけれど、頑丘にはもっと心があったし、それは言い訳にはならないような気がします。やはり彼女自身の問題なんだ。しかし捕らえて罰したところで彼女は理解できないのでしょう。知りたいことが知れてよかった、悔いはない、くらいの感覚でしょうか。最後、泰麒は彼女を見逃しましたが、ぜひ今後は戴を旅していただき、自らの行いが引き起こした民の困窮や傀儡にした人々の家族との触れ合いをしていただきたい。そこで人間らしさを学び、心が成長して彼女が傷つくことがあるのなら、それこそが罰となるのではないのかなという気がします。

 

それにしても阿選です。彼の苛立ちや絶望はわかります。だって人間だもの。結局人間だったんだもの。神仙にはなれないレベルの人間だったんだもの。彼の悩みは普遍的でくだらなく、現代の蓬莱に生きる我々にとっても身近な話で、日曜9時のTBS企業ドラマに出てきそうでさえあります。しかし考えるに、結局は自分でなんとかできた感情だったのではないかなと思うのです。それを御せないくらい阿選が小物だったのか、驍宗が神々しかったのか。せめて驍宗と酒を酌み交わし、うっかり酔っ払って罵詈雑言恨み辛みを吐き出すくらいの気概があれば、こんなことにはならなかったのではないのか。驍宗さまはそんな挑発には乗らないけれど、きっと失望はしなかったはず。それに物語の中でも言っていたとおり、驍宗は阿選を認めていたし、それどころか己の行動のモチベーションにもなっていたのに、残念な結果です。対話の重要性、そして恥を乗り越えることの重要性をまざまざと見せつけられました。

 

だからこそ、今作の終盤で驍宗の発言が少ないことがとても残念でした。泰麒と会話するところもしっかり描いてほしかったし、なにより阿選と対話してほしかった。武力で阿選を打つのではなく、対話で器の違いを見せつけて阿選の心を徹底的に折って欲しかった。4巻の途中、ようやく希望が見えてきたところで「えっ、もうあとちょっとしかページ残ってないけど!?」と思ったときの予想通り、最後の気持ち良い部分がとても駆け足で詰め込まれてしまって残念です。花影と李斎の再会だって喜ばしいはずなのに、花影とかいいから驍宗と泰麒を!!って思いましたよ。そんなに急ぐのなら江州の城に引くのではなくて、白圭宮でカタをつけてほしかったなあ。ヒーローものよろしく驍宗をみんなで救出し、泰麒が転変し民衆がざわついたところに傲濫が帰還して兵士動けず、そこに神々しいまでの驍宗さまが脂汗プルプルの阿選に語りかけ、玉座に帰還する・・みたいなべたべたな展開でもいい・・!カタルシスを味わいたかった・・!作者としてはそこはもうわかりきったことでしょう、ということなのかもしれないけど・・・楽しかったけど!うれしかったけど!夢中で読んで満足感に満たされてはいるけれど!恐れ多くも申し上げれば、ちょっと消化不良です。もっとください。江州城に引くのであれば、やはり5巻がほしかった。今からでもいい、ほしいのです。どんなに冗長でもいい、驍宗がこの7年を経てどんな変化があったのかをゆっくりと描いて欲しかった。英章の人と成りももう少し知りたかったし、せっかく遠路遥々やってきた延王と延麒ももっとしっかり描いて欲しかった。それに泰麒や驍宗が傲濫をどんなふうに使うのかも見てみたかった‥。あの後、驍宗と泰麒はどんな関係性を築いてゆくのだろう。完璧でよく出来た王だが、猛烈で急ぎすぎるというところがやわらかくなり、強さが表に出た泰麒と合わさるとバランスの良い二人になったのかしらと予想はできるけれど、もっと泰麒と対話をさせてどんな国造りをしてゆくのか、教えて欲しかったです。驍宗さま、泰然としすぎてあまり心の内を語らなかったから、なんか本当にそこにいらしたのだろうかという読後感でさえあります。

 

今でも4巻で終わらせるなら江州に行かない展開はなかったのだろうかと思わずにはいられないけれど、この物語で一番涙が出てしまったのは4巻p395、まさにその江州に向かう描写のところです。

「幡の下には薄墨の一文字、ーー鄷都が創った墨幟の幡だ。」

社会的地位が高いわけでも、武勇に優れていたわけでもない鄷都がしたことが、このクライマックスに王の道を作っていることにとても胸が熱くなりました。死んでしまったことはとても悲しかったけれど、去思とともに名もなき民が名だたる武人たちを大きく支えたこと、国を救うんだというあまりにも大きな思いを遂げるのに社会的地位は関係ないのだとさえ思わせてくれて、とても勇気づけられました。今回はとにかく寒く困窮する戴の世界を描くことにページを割かれていたように感じます。暖かい王宮の中ばかり描かれながら「寒さと飢えで○○万人の民が死んだ」と言われても実感が湧かないけれど、1〜2巻の長く重苦しい話があったからこそ、実感できたものも多かったのかな。だからこそのごほうびが300ページくらい読みたかったのですけれども!!短編に期待します。

 

最後に、嬰児の顔がにゅっと出る鳩、こわかった。今後、鳩を見る目が変わるような気がしています。

 

白銀の墟 玄の月 第三巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第三巻 十二国記 (新潮文庫)

 
白銀の墟 玄の月 第四巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第四巻 十二国記 (新潮文庫)

 

 

 

十二国記「白銀の墟 玄の月」1、2巻

台風の影響で入手が遅れましたが、さっそくかぶりつき、2日で2冊読了いたしました。私は5〜6年前に十二国記を知って読み始めたので、18年は待っていませんが、それでも続きが知りたいと焦れた気持ちでおりました。中でもやはり「驍宗サマどこー!」というのが一番知りたいことであったので、第1巻表紙の凛々しい泰麒の姿を見た時には、「驍宗様をお救いする!」という強い覚悟をその瞳に湛えているように感じ、胸が高まりました。きっと今作はこんなに大きくおなりな泰麒が李斎と飛影に乗って驍宗様を探しに行く胸踊る展開になるに違いない・・・と。

 

少しずつ解きほぐされてゆく本編。真実がちらちらと見えてくるようで、話はなかなか動きません。なにより泰麒の心のうちが明かされない。暗黒の蓬莱生活を経て策士になってしまったのか、それともあくまで麒麟として正しい行動を取っているだけなのか、それすらもわからないのです。そして読み進めていく途中、私ははっと思ったのです。ひょっとしてこれは「泰麒が驍宗様をお救いして玉座を奪還する話」ではないのではないか?

 

もちろん話はまだ半ば。11月を待って3、4巻を読まないことにはわかりません。しかし「黄昏〜」を思い出してみるに、あれは天の理を説いた話でありました。黄昏〜の最後、李斎と西王母との問答を読むと、天は無情であることがわかりました。個々の国の事情を鑑みて手を差し伸べたりはしない。天が与えるのはシステムで、生きるのはあくまで人の力、と(うろ覚え)。そう考えると、今作は浅はかな私が期待した「驍宗様と泰麒と仲間たち」の話ではなく、「天意システム」そのものの話なのではなかろうかという気もします。話の中でも言われていますが、泰麒はあくまで戴の民を救う王を選ぶことが役割で、驍宗だけの麒麟ではありません。だからこそ、どんなに驍宗を敬愛していても、天の理に合わなければ情を捨てることさえ求められるのかもしれない。読者は彼が苦しみ悩んで驍宗を王に選んだことを知っています。だから彼らの絆は強いはずだ、謀反に負けないで!いつか再会できるよ!と応援したい。だから驍宗が王であるべきと考え、ともに玉座を奪還したいと考える李斎に共感しそうになります。しかし、今回全4巻で描くのは、そんな情や忠誠心の個人的話の集合体ではなく、もっと大きな、天の理というシステムが与える影響の構造そのものを見せられているような気がしてきました。謀反は起きた。では私怨を超えて、民のために何を選び、捨てることができるのか。そういう前提に立って次巻を想像すると、やはり泰麒は麒麟。心の中は別にして、李斎とは違うのだな、というところが垣間見えてきた・・・ようなちがうような。

 

まだまだ真実も泰麒の真意もわかりませんが、3と4巻楽しみです。表紙は李斎と阿選。どんな展開を迎えるのだろう。黄昏〜から続く、天とは、人とは、生きるとは、この世は箱庭なのか、というところが突き詰められるのかしら。もちろんそういった哲学的問答も楽しみにしています。がしかし、それでも驍宗サマ生きてて、「おおきくなったな」と声をかけ、喜びのあまり泰麒の角がピコーンと復活し、そこに最強の使令傲濫がパワーアップして駆けつけ敵を一掃・・!みたいなハッピーエンドの詰め合わせを見たい幼稚な自分もいます。

 

 

白銀の墟 玄の月 第一巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第一巻 十二国記 (新潮文庫)

 
白銀の墟 玄の月 第二巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第二巻 十二国記 (新潮文庫)

 

 

 

 

「あたしおかあさんだから」を読む。

話題の「あたしおかあさんだから」を読んでみました。(聴いてはいない。)


この歌はお母さんたちを応援したかったのでしょうか、それとも辛いのわかってくれてありがとうと泣かせたかったのでしょうか。おそらく後者なのでしょうが、いち母として感想をしたためてみます。

 

まず冒頭の立派に働くことを強がっていたとする謎の文章が私が靄に引き込みます。そしてそのまま諦めと我慢に満ちた母の独白が続き重い気持ちになったところに、あなたにあえてよかった的な光り輝くパワー文言が登場。全ては希望に変わり眼前が明るく‥‥となりそうなものでしたが、なんだか母の表層をぬるっと撫でられたようなもやもやとした気分になりました。理解共感みたいな矢が私のハハゴコロにズバッと刺さらなかったという感じです。


私も小さめの子供を育てている最中ですが、歌詞に書いてあることに対して事象としては「あるある」と思えることも多々ありました。作者本人もお母さんたちに調査したと言っていることからも、この歌に書かれていることは多くの母親に共通して起こることなんでしょう。しかし私はこの歌には共感とか励ましよりも、インタビューの結果わかった事実をそのまま並べた調査レポートのような感じを受けました。

作者が言うようにこれが「お母さんたちへの応援歌」なのだとしたら、この調査結果にあるような「滅私の我慢をするお母さん」というターゲット像に対しどんな言葉をかけたら大変さが希望に変わり元気づけられるのかをもっと探して表現してくれた方が応援になったのではと思います。世の母たちが漠然と抱えていた大変さを言語化して発信し、そこに辛めな共感が集まったとしても、なかなか幸せはやってこないような気もします。本当にお母さんを応援してくれる気があるなら、やはりその大変さを明るさや楽しさやおもしろさや笑いや希望に昇華してほしかった。それをだいすけお兄さんが歌ってくれるなんて最高ではないですか。(だいすけお兄さんこそ育児中の救いの象徴でした・・・。)


そしてこの作品を覆うある種の暗さしんどさみたいなものは、作者がお母さんはお母さんになる前の自分にこだわっていると思い込んでいるが故なのかしらとも思いました。しかしながら私が個人的に思うに、お母さんって腹の中に子を10ヶ月抱え、産み、べったりと過ごしていく過程で、「私」から「母親という私」という生き物に内側から徐々に作り変えられるような感覚がするのです。ですから歌詞にあるような行動も、まあ母親やってると経験することが多いなとは思いますが、私の中の最優先価値が「子供がうれしい」になった結果の行いであるというだけのことなので、犠牲や耐え忍ぶおしん的精神とは違います。歌詞にもあるように「すべては自分のため」から「子供のため」にシフトしたのです。パラダイムシフトです。それは作者の方が同情するほどしんどいことではないですし、いいお母さんであろうと努力したわけでもないのです。例えば、私が子供の頃、母がお肉を遠慮しているのを見て「おかあさんてなんてかなしいいきものなんだにくをたべれないなんて!』と思ったことがありましたが、今ではあれは我慢とは別次元の問題だったと理解できます。お母さんてそういう生き物なのね、そうしちゃうのね、それが幸せだったりするのねという風に。だって子供がうれしいとお母さんはうれしいのですもの。

 

とどのつまり私が何を言いたいかと言いますと、子供のために自分が変わるということはそれほど悪いことでもないんだぜということです。母になるとそれまでの自由な自分とはサヨウナラだけれども、その反面新しい景色は見えちゃうし、今まで体験したことのない感情を自分の中に発見したりもします。例えば心の奥底から湧いてくる愛しいという気持ち。それは子供のいない時代の自分が味わったことのない良いものなのです。手放したものももちろんあるけれど、お母さんになって得られたものもたくさんあって、数年前の某カード会社のキャンペーンの言葉を借りればそれは本当にプライスレスなものなのです。ということで、私は「わたしおかあさんだから」手放した時間に思いを馳せるのではなく、わたしおかあさんだからこそこんなにいろんなもんが得られたぞと、できるだけいいことを数えながら進んで行く母親人生の方に魅力を感じるなあと、くどくどとした感想を持ったのでした。

 

 

 

 

映画『ドリス・ヴァン・ノッテン ファブリックと花を愛する男』

ドリス・ヴァン・ノッテンの映画を観ました。

服のあり方に高い理想を持っているからこそ、大企業の傘下に入ることを良しとせず、昨今の消費されるファッションにも否定的だというドリス・ヴァン・ノッテン。大いなる流れに巻かれず、自分の足で踏ん張って戦おうという人に熱い気持ちにさせられがちな私は、この美しいブランドのことをもっと知りたくて観に行きました。もちろんデザイナーとしての哲学やドリスさんの花と植物とアートに囲まれる美しい暮らしにもため息が出ましたが、それよりもなによりも公私ともにドリスさんを支え続けるパートナー氏のまなざしが本当にあたたかくて、この映画はラブストーリーだったのかと錯覚するほどでした。あんなまなざしで30年もの長きにわたって見つめられていたら道に迷うこともないんだろうなあ。そんなところばかり気になってしまったのは私だけでしょうか。いやはや、すてきです。

 


映画『ドリス・ヴァン・ノッテン ファブリックと花を愛する男』予告

「64」 横山秀夫

「64」の映画が公開されることも知らず、数ヶ月前に社会派小説を読もうと決めて買いためていた中の一冊としてたまたま手に取りました。ちょうど読み始めた日の朝刊に作者と映画主演の佐藤浩市氏のインタビューが大きく掲載されており、とっても読みたかったのですが大筋や結末をうっかり知ってしまうことがおそろしく、粗い斜め読みに止めました。映画宣伝関連も世にたくさん出ていますので、思いがけず中身を知ってしまう前に読み終わろうと短期決戦で挑みました。最近では高村薫氏の難解な文体に心を奪われていたので、この作品の上巻途中までは簡潔な文章になかなか引き込まれずにおりましたが、三上という主人公が今の自分の職務の本分を果たそうと決意してからは読者としての熱意も上がり、最後のページまで一気に読み終えました。

 

それにしてもこの作品で感じるのはイガイガとした人間ドラマです。刑事部と警務、地方と東京、キャリアとノンキャリア、警察とマスコミ、マスコミの地方と東京。あちこちに嫉妬ややっかみ、劣等感や特権意識、敵意やら敵意やら敵意が渦巻いています。作者の横山秀夫氏は元々地方紙の記者をしていた方と読みました。きっとこの小説に書かれている事件報道を取り巻く環境は現実をリアリスティックに映し出したものなのでしょう。また主人公である三上が気づいた(というか部下に気付かされた)、警察内部の事情云々よりも外側に目を向けるべきであり、事件報道においては「被害者の生」に目を向けることが必要であるという気づき、そして広報と報道の関係性に於いては政治や戦略ではなく真っ当に腹を割って話をすべきであり、そのための信頼関係の構築こそが後輩に引き継ぐべきものだというようなことは、横山氏が記者として感じていたことなのかなと想像させられました。


こういった組織という箱の中で起きる戦をさもこの世のすべてと言わんばかりに戦っているおじさんたちの物語を読むたび、引き込まれながらもなんともくだらないという感想を抱いてしまいます。そこには男(だけじゃないけど)の信念や覚悟や野望があり、ロマンもあります。正直物語としておもしろいです。しかし引いてみれば、大事なのはそこじゃないだろうという突っ込みを入れたくなる。「64」に登場する警察にとっても大切なのは組織の体面維持のための戦略的行動ではなく、人の命や市民生活を守ることこそが大儀であるはずです。警察がミスを犯した時、隠蔽することでしか組織を守れないという思い込みよりも、失敗から学び前に進む姿勢こそ見せて欲しい姿です。しかし、そうはいかない。慣例に従い、上に従い、上はさらに上に従うことでしか立ち行かないという大前提で存在している大きな組織。現状に疑問を抱き正そうとするならば、それらに逆らい、将来を奪われるリスクと戦いながら行動しなければならない。だからその労力と負担を考えれば、個々の生活を守るためにも保身に走るというのが常識なのかもしれません。完全にそういった組織の窓の外にいる一市民で一読者である私には、結局は刑事も警務も地方も東京も関係なく正しく事件を解決し伝えるという目的を共有しているのだから仲良くしてよ〜と軽く思いますが、その中にいる人たちにとってはやはりそこがこの世のすべてになるのでしょうか。

 

どんな業界でも慣例通りつつがなく執り行うことが一番ラクな仕事スタイルだと思います。時間的にも心理的にも最も効率的な働き方です。慣例を覆してまでその職務の「正義」を貫こうとすることは、三上のように信頼関係を壊したりいらぬ波乱万丈を招いてしまい、うんざりするような労力を必要とするのだろうと想像します。しかしそれを乗り越えたとき初めて本当の信頼と尊敬を得ることができ、いい仕事ができる素地ができるのかもしれません。そのように行動できる人は社会にそうそういないのだろうと思う時、三上の物語がとてもおもしろく感じました。

 

64(ロクヨン) 上 (文春文庫)

64(ロクヨン) 下 (文春文庫)