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そぞろごと Reviews + Opinions

「64」 横山秀夫

「64」の映画が公開されることも知らず、数ヶ月前に社会派小説を読もうと決めて買いためていた中の一冊としてたまたま手に取りました。ちょうど読み始めた日の朝刊に作者と映画主演の佐藤浩市氏のインタビューが大きく掲載されており、とっても読みたかったのですが大筋や結末をうっかり知ってしまうことがおそろしく、粗い斜め読みに止めました。映画宣伝関連も世にたくさん出ていますので、思いがけず中身を知ってしまう前に読み終わろうと短期決戦で挑みました。最近では高村薫氏の難解な文体に心を奪われていたので、この作品の上巻途中までは簡潔な文章になかなか引き込まれずにおりましたが、三上という主人公が今の自分の職務の本分を果たそうと決意してからは読者としての熱意も上がり、最後のページまで一気に読み終えました。

 

それにしてもこの作品で感じるのはイガイガとした人間ドラマです。刑事部と警務、地方と東京、キャリアとノンキャリア、警察とマスコミ、マスコミの地方と東京。あちこちに嫉妬ややっかみ、劣等感や特権意識、敵意やら敵意やら敵意が渦巻いています。作者の横山秀夫氏は元々地方紙の記者をしていた方と読みました。きっとこの小説に書かれている事件報道を取り巻く環境は現実をリアリスティックに映し出したものなのでしょう。また主人公である三上が気づいた(というか部下に気付かされた)、警察内部の事情云々よりも外側に目を向けるべきであり、事件報道においては「被害者の生」に目を向けることが必要であるという気づき、そして広報と報道の関係性に於いては政治や戦略ではなく真っ当に腹を割って話をすべきであり、そのための信頼関係の構築こそが後輩に引き継ぐべきものだというようなことは、横山氏が記者として感じていたことなのかなと想像させられました。


こういった組織という箱の中で起きる戦をさもこの世のすべてと言わんばかりに戦っているおじさんたちの物語を読むたび、引き込まれながらもなんともくだらないという感想を抱いてしまいます。そこには男(だけじゃないけど)の信念や覚悟や野望があり、ロマンもあります。正直物語としておもしろいです。しかし引いてみれば、大事なのはそこじゃないだろうという突っ込みを入れたくなる。「64」に登場する警察にとっても大切なのは組織の体面維持のための戦略的行動ではなく、人の命や市民生活を守ることこそが大儀であるはずです。警察がミスを犯した時、隠蔽することでしか組織を守れないという思い込みよりも、失敗から学び前に進む姿勢こそ見せて欲しい姿です。しかし、そうはいかない。慣例に従い、上に従い、上はさらに上に従うことでしか立ち行かないという大前提で存在している大きな組織。現状に疑問を抱き正そうとするならば、それらに逆らい、将来を奪われるリスクと戦いながら行動しなければならない。だからその労力と負担を考えれば、個々の生活を守るためにも保身に走るというのが常識なのかもしれません。完全にそういった組織の窓の外にいる一市民で一読者である私には、結局は刑事も警務も地方も東京も関係なく正しく事件を解決し伝えるという目的を共有しているのだから仲良くしてよ〜と軽く思いますが、その中にいる人たちにとってはやはりそこがこの世のすべてになるのでしょうか。

 

どんな業界でも慣例通りつつがなく執り行うことが一番ラクな仕事スタイルだと思います。時間的にも心理的にも最も効率的な働き方です。慣例を覆してまでその職務の「正義」を貫こうとすることは、三上のように信頼関係を壊したりいらぬ波乱万丈を招いてしまい、うんざりするような労力を必要とするのだろうと想像します。しかしそれを乗り越えたとき初めて本当の信頼と尊敬を得ることができ、いい仕事ができる素地ができるのかもしれません。そのように行動できる人は社会にそうそういないのだろうと思う時、三上の物語がとてもおもしろく感じました。

 

64(ロクヨン) 上 (文春文庫)

64(ロクヨン) 下 (文春文庫)