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「太陽を曳く馬」 高村薫

年末に読了しました・・・が、む、むずかしかった。全体の2%程度しか理解していないと思われます。福澤一族の物語という側面があるそうなので、晴子情歌と新リア王を読んでからもう一度読み直してみようと心に留めておきます。

 

それにしても読んだ印象として浮かぶ言葉は「錯乱」でしょうか。登場人物たちの心の錯乱か、文字を目で追えど理解できない私の頭が錯乱しているのか。概念的な美術の話に、仏僧の問答に次ぐ問答・・・。耳で聞けばもっと理解もできたかもしれないけれど、文字で追うのは大変集中力がいりました。そんな中、吉岡刑事のあっさりとした態度は輝いていて見えました。このハイレベルな知的議論が誰にも彼にも当てはまるわけではないのだと、登場するたび凡人の私を安心させてくれるのです。それでも吉岡も鋭く頭の良い人間として描かれています。議論を吹っかけられたら自分なりの論点を組み立てて応じられそうですが、合田に言わせれば吉岡は所詮現代の若者。うだうだ物事の深淵を探ることもせず、仕事と割り切り捜査対象を見る。だからこそ、すらっと全体像が見える。思索することに重きを置いていないから結論を言い切れる。だけれども与えられた仕事以上の働きはしないし、深みもない。それでも組織の歯車としては重宝され出世するのはこういうタイプかもしれません。考えすぎるお利口で真面目でちょっと破天荒な合田タイプは損するしかない、それが大きな組織・・・でしょうか。

 

吉岡のように現代社会を飄々と効率的に生きるリアリストたちとは反対に、問答し思索し言語化するプロセスに価値を置く僧侶や芸術家たちは、実際は単に面倒臭い人種とみなされるに違いない。思考の渦にはまり込み事件にのめり込み問答を深めることに意味を見出す合田もしかり。しかしその難解な言葉の鎧を剥がせば、嫉妬や妬みの人間臭い感情に自由というシンプルな想いが見え隠れします。真実はいつもシンプルであるものの、虚栄心や排他的な態度が物事を複雑にしている・・・ような気が私常々しています。しかしそれではドラマも美しい物語も芸術も優れた思考も生まれないわけで、この世界に無駄なものは必要なのだと結局は結論づける私も「不必要なもの」が大好きです。

 

それにしても合田さんよ。この物語をレディ・ジョーカーの続きと捉えるならばあの物語の最後に掴みかけていた救いはなんだったのか。その後一体何があったのです?徹底的な他者への無関心に、浮遊する意識との「おまえ」対話。問答を悶々と続けるけれど、相変わらず答えを出す手前にやめてしまう。こういう人が救われるためにはどうしたらよいのですか。答えを導き出してくれる人よりも必要なのは問答パートナーなのか。それとも一人にして差し上げることが正解なのか。悩ましい男性です。

 

太陽を曳く馬〈上〉

太陽を曳く馬〈下〉