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「劇場版「鬼滅の刃」無限列車編」をみる

数ヶ月前から鬼滅の刃の主題歌を大熱唱中だった我が家の小学生。本編には興味ないとかっこうつけていましたが、クラスで日々増える鬼滅の刃の会話に痺れを切らしたのか、ついに「映画観に行きたい」と言ってきたので行ってまいりました。(ちなみに私はNetflixでアニメを視聴済み、子どもはテレビで飛び飛びに視聴。)

観劇後、大人の私は「煉獄さん、いい上司だな」という感想を持ちましたが、子どもは「呼吸全部使えるようになりたい!」という感想でした。そんな子どもの様子を見ながら、私も小学生の時、亀仙人がフライパン山で披露したかめはめ派を参考にやってみたことがあったな・・と思い出しました。結果かめはめ派は出ず、自分の平凡さにがっかりしたのですけれど。

 

しかし鬼滅の刃が人気があるのもわかります。煉獄さんや炭治郎やいのすけの言葉に心が震えてしまうのは、誰もが心のどこかで「あんな生き方ができたらいいな」と、憧れに似た気持ちを持っているからなのではないでしょうか。鬼滅の刃は、「鬼を狩る」というわかりやすく一本道な大目標を持ち、それに向かってひたすらに精進する若者たちのお話だと思います。鬼という熱くなれる明確な対象があり(命がけだけど)、より強い鬼を狩れるようになるためには努力が求められ、そのための模範となる先輩たちもいる。望む者には適切なアドバイスも実践の機会も与えられ、努力すればするほど勝利という形で成長を実感でき、その結果的として社会の役に立てる。皆んながみんな、誰かがやってくれると思って生きていない。ああ、こんな世界ならおれだって心を燃やせるのに・・・と錯覚します。しかし剣や鬼やすごい呼吸法を除けば、自分の環境に置き換えることも可能だし、彼らのような心持ちで生きることは不可能ではないのではない‥はず‥!と思ったりもしました。まあ、彼らと違って自分の仕事の意義は見失いがちですし、これでよかったのかと迷子になりやすく、ついつい「煉獄さんのような上司求む!」みたいな気持ちになってしまうのですけれども。

 

それからこの映画を観ていて思いを馳せたことがもうひとつ。この作品に限らず、冒険的物語における少年少女でも若者でも老人でもない世代、つまり子育て働き世代の中年世代(語感が悪い)の扱いについてです。以前、何かで少年少女向けの登場人物は19歳以下でないと共感されづらいというような話を読んだことがあります。鬼滅の刃も少年ジャンプでの連載ということで、若者が中心に描かれています。柱ですら10代から20代。でも、現実世界と照らし合わせて(さらに自分を中心に)考えてみると、30〜40代って働き盛り。体は動くし、世界の仕組みを感じとる程度には経験値もある。もちろん若者のような俊敏性や寝ないでも大丈夫な能力、無垢に世界を信じる清い心はありませんし、鱗滝さんのような知恵と経験値の象徴としとはまだまだ若輩で、確かに「中年」、中途半端なのです。たとえ物語の真ん中あたりに混ぜてもらえたとしても、10代の正統派主人公たちからすると20代さえ遥かに遠い大人に感じる中、おじさんはおじさんが思う以上におじさんなので、読者を意識すると難しいのはわかります。けれども、今や少年少女だけではなく、より幅広い世代がこういった映画や漫画や小説を見るようになった時代です。だからこそ、中年にはもっと可能性はないものか・・・と思ったりもします。

 

もちろん少年少女が活躍するファンタジーはすばらしいです。彼らが始まったばかりの人生をより良く生きるための、ある種参考書みたいなものですから、大切なことです。しかし私のような中年世代が若者の物語を読んで思うのは、自分は終わった側の人間なのだ、というさみしさです。世界を救うのは、若者だけの特権なんだろうか。中年は決して物語の主人公にはなれないのだろうか。私たちだって、私たちの人生にまだまだ希望を持ちたいし、感じさせてほしい。戦いに行く子どもたちを送り出し、帰ってきた彼らに暖かいごはんを出す以外にも役割はあるはずなのです。これからの時代、人は長く生きます。だからこそ、若く青い時代が過ぎ去っても、若者のサポーター役に徹しなければいけないと思わず、一緒に戦っていきたい。いくつになったって心を燃やして戦う場面はやってくるはずだと、そう思いたいです。とは言っても、結局自分の人生をどう生きるかは自分次第ですし、そのモチベーションを若者からもらっても問題ないわけですが、「いくつになっても挑戦できる」という概念が溢れるこの時代だからこそ、若者中年壮年老人が混じり合って紡がれる冒険物語も見てみたいです。