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進歩的な女性

昨日『コードネームU.N.C.L.E』という映画を観ました。冷戦時代のアメリカとロシアのスパイが主人公の、コミカルでスタイリッシュで楽しい上にひたすらに美しい男たちと女たちが映り続ける、何回でも観られる作品です。この映画には2人の女性が出てきますが、どちらも仕事を持ち、とても強い。この時代にしては進歩的な女性だったんだろうな‥と思い、ふと進歩的な女性ってなんだろうと考えました。

 

80歳目前である私の母の時代には、進歩的な女性とは主に「家庭の外に踏み出し仕事を続ける人」だったと思います。そんな勇気ある女性たちがたくさん活躍したおかげで、私が社会に出る頃には女性がおもいきり働くことを謳歌できる土台ができていました。もちろん、性別の区別ない世界がすべて叶ったわけではないし、今でも女性をみくびる人はいる。何の不自由もないわと思い込んでいた私だって、今思えばみくびられているなと思ったことはありました。けれど、「女の子に意見されたことなんてないからびっくりしちゃって」と20代の私に言ったおじさんを鼻息荒く無視するくらいの自由はありましたけど。

 

私は母親になり、考えます。今、この時代における進歩的な女性とはなんだろう。

 

昨今あらゆる局面で多様性が大切だと言われ、もはや万人に当てはまる進歩の定義はないように思えます。道標になる情報は山ほどあるものの、結局その中からどの情報を掴むかは自分で決めなければならない。「女性たちよ、外へ出よう」というひとつのスローガンの元、同じ方向を目指して走っていた時代は過ぎ去り、様々な壁が打破されたあとに広がるのは大きな可能性という森です。あらゆる人の在り方を認め、その気になればどんな道も開けるという時代を歩くのは、時に苦しい。どんな選択肢でも選択可能な世界は、「今よりベターな選択肢がこの先あるかもしれない」という現状への消化不良感も与えてくれます。「これを壊せば進歩だ」と言う絶対的なものの残っていた時代を少しうらやましく感じてしまうのは、私が自由という贅沢に慣れてしまったせいなのでしょうか。

 

今の時代、女性が働くことはもはや当たり前になり、結婚するしないも、子どもを持つ持たないも本人の価値観によって選択されるようになりました。結婚し子どもを持った後の女性のあり方についても、女性が家庭の外を目指すことは(概念的には)定着し、次の段階に突入しています。今や夫婦ともに仕事を持つ家庭が増え、さらには夫に家庭を任せて自らが稼ぎ頭になる超進歩的女性もいる。一方、テクノロジーのおかげで本来外でしていた仕事を自宅ですることが可能になり、家庭と仕事の両方を手に入れる道もできたし、逆に家庭運営に価値を再発見する人がいたりするなど、母たちの進路も多様化しています。そういった”在り方”だけには止まらず、女性が選択できる職業や住む場所などにも広がりが加わり、無限の選択肢を前にしばし圧倒されることもあります。今や、私たちは様々な選択肢を自由に”選べる”世の中に生きています。しかし、問題は選択肢の多さだ、と感じることもあります。過去の女性たちからしたら、なんと贅沢な悩みか。

 

この数十年の間に、女性が家庭という枠から飛び出して活躍するという進化が成されてきました。その後を継ぐ今の女性たちが進歩する先は、もはやその延長線上だけではないのかもしれません。みんなが走るべき1本の絶対的直線コースはもはやなく、あらゆる方向にいろいろな長さのコースが走っている。そのいくつかは、直線ですらないかもしれない。人によっては何もないところに自分でコースを作るかもしれない。世の中にある選択肢の中から選択するか、はたまた自分で新たな選択肢を創り出すのか、それすら選択できるのです。ではとどのつまり、今の時代の「進歩的な女性」とはなんなのか?それは自分の優先価値を把握し、膨大な選択肢の中から自分の行き先を自分で見出す力を持った女性を指すのかもしれない。いや、なんだか合わないな。進歩的という言葉そのものがそぐわなくなってきているのかな。言いかえよう。世間や社会、はたまた自分以外の誰かが指し示す方向に惑わされず、自分の思いに耳を傾けその声に従うことのできる強さを持った女性、ということでどうでしょう。これからのベクトルは「進歩」から「強さ」へ。となると、進歩的な女性という表現事態が過去のものとなり、価値をはかる軸そのものが変わったこと、それこそが女性全体に起きている進歩なのかもしれません。