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「あたしおかあさんだから」を読む。

話題の「あたしおかあさんだから」を読んでみました。(聴いてはいない。)


この歌はお母さんたちを応援したかったのでしょうか、それとも辛いのわかってくれてありがとうと泣かせたかったのでしょうか。おそらく後者なのでしょうが、いち母として感想をしたためてみます。

 

まず冒頭の立派に働くことを強がっていたとする謎の文章が私が靄に引き込みます。そしてそのまま諦めと我慢に満ちた母の独白が続き重い気持ちになったところに、あなたにあえてよかった的な光り輝くパワー文言が登場。全ては希望に変わり眼前が明るく‥‥となりそうなものでしたが、なんだか母の表層をぬるっと撫でられたようなもやもやとした気分になりました。理解共感みたいな矢が私のハハゴコロにズバッと刺さらなかったという感じです。


私も小さめの子供を育てている最中ですが、歌詞に書いてあることに対して事象としては「あるある」と思えることも多々ありました。作者本人もお母さんたちに調査したと言っていることからも、この歌に書かれていることは多くの母親に共通して起こることなんでしょう。しかし私はこの歌には共感とか励ましよりも、インタビューの結果わかった事実をそのまま並べた調査レポートのような感じを受けました。

作者が言うようにこれが「お母さんたちへの応援歌」なのだとしたら、この調査結果にあるような「滅私の我慢をするお母さん」というターゲット像に対しどんな言葉をかけたら大変さが希望に変わり元気づけられるのかをもっと探して表現してくれた方が応援になったのではと思います。世の母たちが漠然と抱えていた大変さを言語化して発信し、そこに辛めな共感が集まったとしても、なかなか幸せはやってこないような気もします。本当にお母さんを応援してくれる気があるなら、やはりその大変さを明るさや楽しさやおもしろさや笑いや希望に昇華してほしかった。それをだいすけお兄さんが歌ってくれるなんて最高ではないですか。(だいすけお兄さんこそ育児中の救いの象徴でした・・・。)


そしてこの作品を覆うある種の暗さしんどさみたいなものは、作者がお母さんはお母さんになる前の自分にこだわっていると思い込んでいるが故なのかしらとも思いました。しかしながら私が個人的に思うに、お母さんって腹の中に子を10ヶ月抱え、産み、べったりと過ごしていく過程で、「私」から「母親という私」という生き物に内側から徐々に作り変えられるような感覚がするのです。ですから歌詞にあるような行動も、まあ母親やってると経験することが多いなとは思いますが、私の中の最優先価値が「子供がうれしい」になった結果の行いであるというだけのことなので、犠牲や耐え忍ぶおしん的精神とは違います。歌詞にもあるように「すべては自分のため」から「子供のため」にシフトしたのです。パラダイムシフトです。それは作者の方が同情するほどしんどいことではないですし、いいお母さんであろうと努力したわけでもないのです。例えば、私が子供の頃、母がお肉を遠慮しているのを見て「おかあさんてなんてかなしいいきものなんだにくをたべれないなんて!』と思ったことがありましたが、今ではあれは我慢とは別次元の問題だったと理解できます。お母さんてそういう生き物なのね、そうしちゃうのね、それが幸せだったりするのねという風に。だって子供がうれしいとお母さんはうれしいのですもの。

 

とどのつまり私が何を言いたいかと言いますと、子供のために自分が変わるということはそれほど悪いことでもないんだぜということです。母になるとそれまでの自由な自分とはサヨウナラだけれども、その反面新しい景色は見えちゃうし、今まで体験したことのない感情を自分の中に発見したりもします。例えば心の奥底から湧いてくる愛しいという気持ち。それは子供のいない時代の自分が味わったことのない良いものなのです。手放したものももちろんあるけれど、お母さんになって得られたものもたくさんあって、数年前の某カード会社のキャンペーンの言葉を借りればそれは本当にプライスレスなものなのです。ということで、私は「わたしおかあさんだから」手放した時間に思いを馳せるのではなく、わたしおかあさんだからこそこんなにいろんなもんが得られたぞと、できるだけいいことを数えながら進んで行く母親人生の方に魅力を感じるなあと、くどくどとした感想を持ったのでした。