点々

そぞろごと Reviews + Opinions

尾崎豊を起点に生き様を悶々と考える。

わたし音楽をよく聴きますが、詳しくはありません。好みのジャンルなんてものもありませんし、振り返ればこんなものが多かったなという程度。最近はYouTubeで懐かしい曲を探しては、過去を振り返るのが大好きな中年らしくなつかしい〜なつかしい〜を連発しております。それにしても90年代のJpopのヒット曲をみていると、コメント欄に今の中学生や高校生が「この時代に生きていたかった」なんてコメントしていることがあって、あの時代に青春を送った人間としてはちょっぴり嬉しくなったりします。この感情はなんだろう?そもそも価値観を異にしていると思っていた今の時代の子らが、その昔自分たちが好きだったものを認めて共感してくれたことが嬉しいのだろうか。それはさておきYouTubeコメント欄に戻ると、90年代ロックバンドの音楽を「お母さんがいつも聴いているから好きになった」と言う子がいたりもして、音楽の好みひとつとっても親の影響力って大きいのだなと感じます。それにしてもの時代の変化よ。私たちの世代ではお母さんが家で好きなロックを流すなんて考えられなかった。あの時代ではロックお母さんはいたとしてもかなりとんがった存在だったし、お母さんて一歩引いた存在でテレビのチャンネル権も家庭内で流す音楽の権利も放棄していてくれた気がいたします。(食事の肉の取り分も遠慮してくれていた。)自分だけの居場所はキッチンで、自分だけが好きな音楽はそこで小さく流す程度。思い出すと泣けてきます。ごめんよ、おかあちゃん。

 

母の思い出はさておいて、私は青春時代に歌の歌詞を聞き込んで共感するという作業をしない少女でした。そういう行為は感傷的で嫌だと無意識に思ったりしていたものですから、なんとなく曲の雰囲気が好き〜という程度の理由で聴く曲を選んでいたように思います。英語の授業は大好きでしたが、日本語の歌に突如出てくる英語のフレーズにはまるで「英語人になりたいんです」と言っているようで気恥ずかしさと違和感を覚えてしまいます。だから私は英語に逃げず日本語で堂々と勝負している歌が好きです。湿っぽい恋心を練られていない直接的な言葉で吐露したようなものはむずむずするので、日本語で堂々と俺の生き様心の叫びを抽象的に歌ったものが好みです。

 

生き様主張歌謡の(私的)代表といえば尾崎豊。彼の提起する青春の課題には共感しませんでしたし、対極の価値観を持って育ったとも自負しています。だって青春時代ほどよく良い子だった私はバイクを盗みたくなったことはないし、窓ガラスを割りたいという衝動が湧いたことも、大人がか弱いとも学校が無意味だとも思ったこともありません。尾崎豊の曲は2〜3知っているけれど歌うことはできない、その程度の認識です。むしろ後年仕事帰りに誘われて立ち寄ったルミネtheよしもとで観た井上マーの方が記憶に残っているくらい。

しかしそんな私にも30に足が届こうとする頃、尾崎インパクトは遅れてやってきました。齢30といえば、社会に出てある程度の時間が経って仕事も覚え、この世界はまっとうですくすくとした前向きで白く明るい光ばかりに溢れているわけではないことに気付き始める時期です。私自身大人たちの理不尽さに晒されヘトヘトになり、良心や正義感では物事が進まないことを体験しまくった時期でした。そんなある残業の夜、丑三つ時の誰もいないオフィスでパソコンをカタカタ叩いていると人生で初めて深夜の窓ガラスを割ってまわりたい気持ちが湧いてきました。「先生(上司)あなたはか弱き大人(クライアント)の代弁者なのか」という声も聞こえてきました。突然世の中の大きなシステムの中でもがく人代表(私的)尾崎豊が心に語りかけてきたのです。青春時代にはさらっと通り過ぎた尾崎ソングズですが、色々な理不尽や悩んだ体験を蓄積し、15年の周回遅れでようやっと接点が生まれたようです。それから私の残業応援歌と化した尾崎楽曲を聴くに、彼は「大人」を疑っているようです。では、彼の言う大人ってなんだろう。特に歌詞を暗記しているわけでも尾崎豊という人間を理解しているわけではないのでこういった思考の傾向として考えますが、理不尽に目をつぶるのが大人、不合理にチャレンジしないのが大人、出来上がったシステムを疑わず受け入れるのが大人、その中でいかにうまく生きるかを案じるのが大人・・ということでしょうか。私はこういった大人を否定したいけれど、「いつまでも少年」を声高々と叫び続けるのは成長しないことを肯定しているようで好感が持てない。だからと言って年を重ねれば「がんばればできるんだぜ、世の中希望だらけなんだぜ」といった青臭いことを無我夢中で信じるのも難しくなる。だけど、それらを鑑みた結果として、それでも出来る限りもがいてみせようじゃないかというのが反大人側の態度と思いたい。これでよいのだろうか。とりあえずよしとしよう。

 

私自身の物語として考えてみるならば、大人の理論に疑問を抱いてしまったからこそ遅ればせながら深夜のオフィスでひとり涙した尾崎豊の言葉たちでした。そして悶々とするくらいならばと会社員ワールドを飛び出してしまった私という大人。内側から胸を叩いて叫ぶ心を無視して日々を過ごすくらいならせめてもがいてみせようと決断するに至った自分は、いつの間にか青春時代対極にあった世界の住人になってしまったんだなあと、どうでもよいことを考え耽ってしまうのです。