点々

そぞろごと Reviews + Opinions

映画「黄金を抱いて翔べ」

鑑賞した映画の原作を読んだり、読んだ小説の映画化版をわざわざ観たりしたことがそれほどありません。原作で想像していた世界と映像を比べるという作業をしたことがなかったので新鮮な体験でした。なんというか、原作で登場人物の姿をイメージし過ぎてしまって映像の世界に入り込むのに時間がかかってしまった。幸田を演じた妻夫木さんはサッポロビールを片手に瞳をキラキラさせながら人生の先輩の話を聞く好青年のイメージが強すぎて、肩を撃たれた痛みに大声をあげるまで「本当は明るい人」に見えてしょうがなく、北川に関しては原作を読んでいた時に勝手に醸成した”長身で骨ばった体つき、伸びかけの長い髪がサラサラなワイドデニムを纏ったフォーク世代の残り香漂わせる野性味ある色男”という妄想が邪魔をして短髪のトラック兄ちゃんに中々馴染めませんでした。

 

しかしながらラストの衝撃。幸田や北川のイメージが違うなとか幸田とモモの心のふれあいの密度が違うなとか、そういったことがすべて吹っ飛ぶほどのショックでした。なぜならば私、原作を読了した段階では幸田は人間のいるどこか別の土地へ旅立ったのかと思っていたからです。なんと神の国へ旅立っていたとは。いくらインフルエンザで頭がぼんやりしていたとはいえ、最後の北川の台詞がモノローグだなんて考えもしませんでした。こんな読み違えをするなんて穴があったら入りたい・・ということで最後のページを読み返してみましたが、どちらとも取れるような抽象的な書き方でした(と思いたい)。インターネットで色々な方の映画レビューを見ていたら、井筒監督は新潮で連載されていた当時のオリジナル版をずっと大切に持っていて、おそらくそれをベースに映像化されたであろうとのこと。そしてその版では幸田の死が明確に描かれていたことを知りました。私の買った文庫版では最後の一幕が大きく改稿されているそうです。とはいえ、なんとも能天気に結末を読んだものです。

 

それにしても映画を観ておもしろかったのは、書き言葉と話し言葉の与える印象がずいぶんと違うことです。幸田の口癖「人間のいない土地」は、原作の中で象徴的なフレーズのひとつでした。小説では難しい人間が考える小難しい思考という印象で、こういうめんどくさい人いそうだなと思ったものですが、映像の中で生きた人間が口にすると芝居がかっていて浮いているように感じました。なぜだろうと考えるに、個人的には映像は文字よりも現実世界に近く感じやすく、小説は口に出す言葉よりも頭の中にある思考そのものに近いからかなと考えます。だから脳内思考状態近い(と勝手に思う)台詞が生身の人の口から出た時、クサい台詞と感じてしまったのでしょうか。それとも現実世界でも皆の頭をぱかっと開けて中を覗いてみれば、「人間のいない土地」くらい大げさでもなんでもないと感じるほど、芝居がかったことを考えているものなのかしら。

高村氏の作品には小難しく哲学的な言語を持つ人がたくさん出てきます。他の高村薫作品のドラマや映画はまだ観ていないのですが、合田さんや「冷血」の犯人たちの台詞はあのまま映像になるとどうなんだろう。馴染めるのだろうか。映像化されているものは、今度観てみようと思います。

魔法のことば、おつかれさま。

本日付の朝日新聞朝刊「折々のことば」にて「お疲れ様です。」がメールの書き出しによく使われていると紹介されていました。「本番に向けて力むことなく助走するための符号みたいに使われているのだろう。」とやや疑問を呈しながら分析されています。本来ねぎらいのことばなのに、と。大いに同感です。

 

メールに限ったことではありませんが、私もサラリーマン社会で使われる「お疲れ様です」には若干の違和感を抱いています。内線電話に出る度、社内で同僚とすれ違う度、相手をねぎらいたい場面でなくとも日に何度もこの言葉を交換し合います。枕詞のようにあらゆる場面で軽々しくお疲れ様と言い合うので、これが社会人の暗黙のルールだと言われているようでなんだか心地悪いのです。一般的に「お疲れ様」と頻繁に声をかける人はたいていオフィスの人気者です。だって感じ良いですもの。だからお疲れ様に「お疲れ様」と返さない人は、大げさに言えば就職活動に普段着で行く人くらい非常識でなっとらんと言わんばかりの社会的雰囲気が漂っているようにさえ感じます。しかし本来「おつかれさま」は相手の労を知り、認め、応援する響きすら含むパーソナルな言葉なはず。ですが今オフィスで使われているその様には心がなく、単なる大人のたしなみとして使われていることが多い気がします。魂のない言葉は口に出したくないシャイな私は、「お疲れ様」と返すのにたいていの場合躊躇してしまい、若干の間が生まれてしまいます。あっ、だから愛想が悪いと思われていたのか。

 

「お疲れ様」は、正しい文脈を伴ったときには魔法のような効果を発揮する特別な言葉であると思います。疲れて帰宅した家で美しい妻(美しい夫でもいい)が「お疲れ様」と言ってくれたなら、日々の精進を見てくれている上司がプロジェクトの終わりに「お疲れ様」と言ってくれたなら、仕事が忙しくかまってやれなかったと申し訳なく思っていた子供に「お疲れ様」と言われたら、どんなに満たされるだろう。だからこそ「お疲れ様」が本来持つ理解、共感、ねぎらい、思いやりを含んだジェネラスでgenerousな意図を込めて使いたいと思うのです。

 

がんばる夫よ、お疲れさま。

尾崎豊を起点に生き様を悶々と考える。

わたし音楽をよく聴きますが、詳しくはありません。好みのジャンルなんてものもありませんし、振り返ればこんなものが多かったなという程度。最近はYouTubeで懐かしい曲を探しては、過去を振り返るのが大好きな中年らしくなつかしい〜なつかしい〜を連発しております。それにしても90年代のJpopのヒット曲をみていると、コメント欄に今の中学生や高校生が「この時代に生きていたかった」なんてコメントしていることがあって、あの時代に青春を送った人間としてはちょっぴり嬉しくなったりします。この感情はなんだろう?そもそも価値観を異にしていると思っていた今の時代の子らが、その昔自分たちが好きだったものを認めて共感してくれたことが嬉しいのだろうか。それはさておきYouTubeコメント欄に戻ると、90年代ロックバンドの音楽を「お母さんがいつも聴いているから好きになった」と言う子がいたりもして、音楽の好みひとつとっても親の影響力って大きいのだなと感じます。それにしてもの時代の変化よ。私たちの世代ではお母さんが家で好きなロックを流すなんて考えられなかった。あの時代ではロックお母さんはいたとしてもかなりとんがった存在だったし、お母さんて一歩引いた存在でテレビのチャンネル権も家庭内で流す音楽の権利も放棄していてくれた気がいたします。(食事の肉の取り分も遠慮してくれていた。)自分だけの居場所はキッチンで、自分だけが好きな音楽はそこで小さく流す程度。思い出すと泣けてきます。ごめんよ、おかあちゃん。

 

母の思い出はさておいて、私は青春時代に歌の歌詞を聞き込んで共感するという作業をしない少女でした。そういう行為は感傷的で嫌だと無意識に思ったりしていたものですから、なんとなく曲の雰囲気が好き〜という程度の理由で聴く曲を選んでいたように思います。英語の授業は大好きでしたが、日本語の歌に突如出てくる英語のフレーズにはまるで「英語人になりたいんです」と言っているようで気恥ずかしさと違和感を覚えてしまいます。だから私は英語に逃げず日本語で堂々と勝負している歌が好きです。湿っぽい恋心を練られていない直接的な言葉で吐露したようなものはむずむずするので、日本語で堂々と俺の生き様心の叫びを抽象的に歌ったものが好みです。

 

生き様主張歌謡の(私的)代表といえば尾崎豊。彼の提起する青春の課題には共感しませんでしたし、対極の価値観を持って育ったとも自負しています。だって青春時代ほどよく良い子だった私はバイクを盗みたくなったことはないし、窓ガラスを割りたいという衝動が湧いたことも、大人がか弱いとも学校が無意味だとも思ったこともありません。尾崎豊の曲は2〜3知っているけれど歌うことはできない、その程度の認識です。むしろ後年仕事帰りに誘われて立ち寄ったルミネtheよしもとで観た井上マーの方が記憶に残っているくらい。

しかしそんな私にも30に足が届こうとする頃、尾崎インパクトは遅れてやってきました。齢30といえば、社会に出てある程度の時間が経って仕事も覚え、この世界はまっとうですくすくとした前向きで白く明るい光ばかりに溢れているわけではないことに気付き始める時期です。私自身大人たちの理不尽さに晒されヘトヘトになり、良心や正義感では物事が進まないことを体験しまくった時期でした。そんなある残業の夜、丑三つ時の誰もいないオフィスでパソコンをカタカタ叩いていると人生で初めて深夜の窓ガラスを割ってまわりたい気持ちが湧いてきました。「先生(上司)あなたはか弱き大人(クライアント)の代弁者なのか」という声も聞こえてきました。突然世の中の大きなシステムの中でもがく人代表(私的)尾崎豊が心に語りかけてきたのです。青春時代にはさらっと通り過ぎた尾崎ソングズですが、色々な理不尽や悩んだ体験を蓄積し、15年の周回遅れでようやっと接点が生まれたようです。それから私の残業応援歌と化した尾崎楽曲を聴くに、彼は「大人」を疑っているようです。では、彼の言う大人ってなんだろう。特に歌詞を暗記しているわけでも尾崎豊という人間を理解しているわけではないのでこういった思考の傾向として考えますが、理不尽に目をつぶるのが大人、不合理にチャレンジしないのが大人、出来上がったシステムを疑わず受け入れるのが大人、その中でいかにうまく生きるかを案じるのが大人・・ということでしょうか。私はこういった大人を否定したいけれど、「いつまでも少年」を声高々と叫び続けるのは成長しないことを肯定しているようで好感が持てない。だからと言って年を重ねれば「がんばればできるんだぜ、世の中希望だらけなんだぜ」といった青臭いことを無我夢中で信じるのも難しくなる。だけど、それらを鑑みた結果として、それでも出来る限りもがいてみせようじゃないかというのが反大人側の態度と思いたい。これでよいのだろうか。とりあえずよしとしよう。

 

私自身の物語として考えてみるならば、大人の理論に疑問を抱いてしまったからこそ遅ればせながら深夜のオフィスでひとり涙した尾崎豊の言葉たちでした。そして悶々とするくらいならばと会社員ワールドを飛び出してしまった私という大人。内側から胸を叩いて叫ぶ心を無視して日々を過ごすくらいならせめてもがいてみせようと決断するに至った自分は、いつの間にか青春時代対極にあった世界の住人になってしまったんだなあと、どうでもよいことを考え耽ってしまうのです。

 

 

「リトルマーメイド」を通して考える子育て親育ち。

ディズニー映画、好きです。冷めた視点に逃げることなく夢や希望や冒険を堂々と描き、ハッピーエンドで語り切る姿勢が好きです。必ず明るい気持ちで観終われるのが心地いい。ディズニーの音楽も汚れのない気持ちにさせてくれるので私のYouTubeプレイリストに頻繁に登場しますが、"Part of your world"は最近のお気に入りです(今さら)。この曲自体も好きですが、この歌のクライマックスを歌うアリエルの表情がすごくいい。嵐の中助けた王子を運命の相手だと認めるや、退屈な日常に見切りをつけさせてくれる何かを、人生を変えるような何かを「見つけた!」と語るかのような強い女の子の顔。その期待におののく表情の背後には、たとえ嵐のような激しい変化を伴うものでも受け入れてやるわ!という覚悟が潜んでいるようにさえ感じます。腹を括った覚悟のある女の子ってすごくいい。好きです。

 

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それにしても私は一児の親です。少女と王子様のロマンスよりも、堅物オヤジの海王と好奇心を抑えられない破天荒ムスメの親子関係にばかり目が行ってしまいました。海王父さんは自分の示すルールを守らず禁じたことばかりに興味を持つアリエルに激怒し、彼女の憧れの全てが詰まった部屋を破壊してしまいます。父さんなぜこんなに怒ったんでしょう。

海の王家と比較するのもなんですが自分の子育てを省みて考えるに、子供に対して最もいらいらとした気持ちが高ぶってしまうのは、理由を突き詰めて考えれば多くの場合、「自分の思う通りにならないから」という点に行き着きます。ウン十年慣れ親しんだ自分の生活スタイルに子供を従わせたい、自分の組んだ予定通り子供に行動してほしい、自分の思い描くような子供に育ってほしい・・などなど無意識に思っている気がします。親の作ったルールに子供を閉じ込めると何が起きるか。そりゃあ反発に決まっています。どんなちびっこだってひとりの立派な人間であり、意思も考えも自我もあるのですから。しかし自分が子を持って初めて知りましたが、親だって未熟な人間です。自分の思う通りにしたいという子供っぽい心を隠し持っていたりします。だけど子供は自分と切り離された一個人だと認めなきゃいけない、いけないのです。

 

終盤カニかエビのセバスチャンが言います。

"Children got to be free to lead their own lives."

「子供たちには自由な生き方を選ばせるべきですな」

 

海王父さんはアリエルの気持ちの真剣さを知り、協力する道を選びました。これは父さんが自分の主張を我慢して折れたのではなく、固執していた自分の考えを捨て新たな価値観を受け入れたという成長の瞬間です。レベルアップです。つまりアリエルは自分の所有物ではなく、自由な意思を持った人間(魚)であり尊重してしかるべしということを認める勇気を持ったのです。その結果として娘は去って行きましたが、彼女は大いなる幸せを手に入れ、人魚と人間の世界の隔たりも消えました。万々歳のハッピーエンドで、涙、涙です。エンディングの大円団を眺めながら、親子関係における親の幸せとは子供の幸せに尽きるのだろうと考えました。そのために親ができることは、先周りして道を整えることではなく、より良い道に誘導することでもなく、痛い目に遭わないよう鳥かごに閉じ込めることでもない。できるだけ子供の冒険に手を出さず見守る勇気を持つことなのだろうと思うに至りました。親が具体的にできることなんて、せいぜいごはんをたらふく食べさせて強い心と体を作ることくらい。せめて日々の炊事をおろそかにせず、親子共々強靭な心を育みたいものです。

 

想像以上のしんどさインフルエンザ

生まれて初めてかかったインフルエンザ。

ある日子どもがどこぞでA型ウイルスを拾って帰宅、密接に密着して暮らす我が家ではあっという間にウイルスが蔓延し翌日全員全滅。真っ赤な顔をして辛そうな子どもをみてるだけでも我が家の通常生活は滞っていたのに、全滅は想像以上のしんどさです。特に大人のインフルエンザは子ども以上に辛いそうで、頭痛や体のあちこちの痛みがそれはもう凄まじく、痛みが走る度顔をしかめて唸る。あまりにも激しくうっ!うぁっ!となるので、見えない敵と物理的に闘っているようで滑稽ですらあります。さらに短い周期で痛みが襲ってくるためずっと力の入ったしかめっ面をしており、この一週間でシワが一層深くなりました。インフルエンザ、いいこと何もありません。

 

子どものいない無責任会社員時代だったら「会社長期離脱ラッキー」とか思ったと思いますが、今の生活ではもう二度とかかりたくありません。こんな無為な一週間はもうごめんです。そのためにはまず激しく手洗いうがい、換気に加湿、そして体力、免疫力!特に大根おろし、切った山芋、鶏肉、ヨーグルト、納豆、発酵食品、梅干し・・この辺を喰らうべしです。

「黄金を抱いて翔べ」 高村薫

高村薫氏のデビュー作とのことだし、1巻完結だし、エンターテイメント小説という売りの言葉でワクワクしながら読み始めました・・がしかしなんだかぼやっと読み進めてしまい、さして共感を抱く登場人物も見つけされぬまま終了。これは内容云々ではなく、単純に我が家でインフルエンザの大嵐が吹いているせいと思われます。私以外の家族メンバーはすでにA型にやられ沈没。私もインフルエンザ感染の予感がする頭を抱え、節々が痛いと悶絶しながら真っ赤な顔をして眠る子供を腹の上に乗せながら読んだため、残念ながら物語に入り込むことができませんでした。今でも身体中がぞわぞわするし、非常にもったいないことをした。読む本はその時のコンディションを考慮して選ばないといけません。

 

とは言っても完読したので感想を絞り出してみる。この小説は今まで読んだ高村作品と同じく事件が主人公のサスペンスものではないようです。作中なぜ犯罪を企てるのかという説明も特になく、人生に行き詰まった鬱々とした人々が出口を求めて進む旅路を描いた物語という印象でした。主人公幸田については人柄がつかめないままでしたが、なんでか周りの男たちを惹きつけている。人のいない土地を夢見るくらいですから、今にもいなくなってしまいそうで放っておけないと周りに思わせる男なのか。最後に北川が言った「やっと訪ねてきてくれた」にホッとした響きがあるのはそういう理由でしょうか。北川はその時をずっと待っていたのかな。それにしても高村作品は最後の数ページがおもしろい。事件の謎解きを描く小説だったらこれから!というところで終わるので、登場人物たちのその後に想いを馳せてしまいます。今回も、シンガポールで女をはべらせる未来が待っているであろう野田は置いといて、幸田と北川はどこへ行くのだろうと想像してしまいます。フィリピンあたりで学生時代のようにビジネスを起こしたりするのでしょうか。北川と幸田は裏社会で活躍し、野田は表の世界で成功する未来があったりするのかな。そして3人で20年後くらいに再会したりするとか・・。すると春樹は?・・・妄想してしまいます。

映画も観てみよう。

 

それにしてもこれが高村氏デビュー作。あとがきを読むに、日本の小説を読み込んで賞がとれる傾向と対策をスタディしていたわけでもなく(フランス文学専攻とのことですし、海外小説や古典はたくさん読んでいたそうですが)、子供の頃から物書きになることを目指して練習していたわけでもない。約10年貿易会社で働いていた人がワープロを買ったから何か書かないと損という理由だけである時突然表現を吐き出した。その結果として生まれた物語がこのクオリティと思うととても刺激を受けます。機械や工場など男臭い対象物のリアリズム描写がよく知られている高村薫さんは女性ですが、インタビューで知るところによると子供の頃は人形遊びよりも戦艦大和のプラモデルが好きな女の子だったそうです。何かになりたいと考えた時、それそのものに関連した専門書を読んだり講座に通って練習することよりも、色々なことに興味を持ってつぶさに観察してきた財産を持っていること、その重要さを感じずにはいられません。

 

 

黄金を抱いて翔べ (新潮文庫)

お札の肖像を考える

先日テレビ番組でお札に肖像画が使われるのは複製しにくい複雑なデザインにして偽造を防ぐためということを取り上げていました。

そもそもお札の肖像人物はどういう基準で選ばれるのだろう。

製造元の独立行政法人 国立印刷局 によると大まかな条件は下記の通り。

  • 日本国民が世界に誇れる人物
  • 一般的によく知られている
  • 精密な肖像画(写真)が残っていること

上記を踏まえて財務省日本銀行国立印刷局の三者が協議し最終的には財務大臣が決定するそうです。

つまり外国や各種団体からの突っ込みが少ないポリティカリー・コレクトな人物で、清々しい業績を残している人とも言えましょうか。最近の傾向をみていると、近代の文化人枠からバランス良く、男女の差も徐々に減らして選考しようという印象を受けます。

 

決して叶わぬ希望と理解しながら私が夢想するのは、日本のお札にテーマを設けたシリーズものです。例えば、戦国武将という縛りで千円・五千円・一万円のお札に載る武将を選ぶ。そうすると一万円は誰にすべきか・・という思索の旅が始まります。やはり一万円札は世に太平をもたらした功績を持つ徳川家康にお願いすべきか。いや格好良さと人気具合で織田信長の方が一万円札の箔がつき持っていても気分が上がるのかもしれない。そうすると五千円札と千円札信長クラスの家臣レベルにするべきか、それとも信長、家康、秀吉の三者を三枚のお札に配置した方がいいか。いやいや信長系譜シリーズ、豊臣シリーズ、徳川シリーズなど分けても楽しそうだし、関ヶ原の合戦シリーズも考え応えがありそうです。

 

または日本のクリエイティビティをお札を通して見せつける「インパクト兜シリーズ」もいい。私としては、そぎ落とした禅的美しさに美意識を感じる伊達政宗公の兜に一万円札をお願いしたい。日本の心は椀ものにあり・・ということで黒田官兵衛さんのお椀が乗ってる兜もコンパクトにまとまっていて素敵です。飲食店での支払いに使われることも多いと思われる五千円札に是非どうだろう。千円に控えるのは変わり兜で織田氏家臣のも森可成さんはいかがか(森可成の二枚胴具足)。でも彼の兜の高さは凄まじすぎてこれではお札に入りきらない。そこで戦国武将に大人気だった伊勢海老モチーフの兜や動物系も捨てがたいし、信長の娘婿蒲生氏郷さんの燕を模した兜も黒々としていて素敵だ(蒲生氏郷公具足・兜)。こちらのサイト(海鮮すぎる戦国時代のオモシロ兜たち)で大変個性的な海の幸系の兜が数多く紹介されていましたが、蛸の兜がまるで生きているようで素晴らしい。千円札にはこれを是非押したい。それにしても自分のアイデンティティを示したり、戦で間違われないために派手な変わり兜が大切だったのだと察しますが、海産物シリーズとか戦場でぷっと吹き出されたりしなかったか気になります。

 

ありえないからこそ想像するお札の肖像コンペティション。いつか歴史好きの担当機関の方々がこんな素敵なお札を世にもたらしてはくれまいか。